窮鼠(きゅうそ)猫を噛む。――ロスタイム、香田ヴィッツが懸命に伸ばした手を弾いたボールはゆっくりとゴールへ吸い込まれた。
貯金生活の夢が霧散した試合後、念願のセリエSデビューを果たしたシオ野シタ二はらしくない行動をとった。上半身裸のままで、主審の前に仁王立ちし、顔を突き合わせ、ロスタイムの長さを執拗に抗議したのだ。線審が制止してもシオ野の怒りは収まらなかった。普段の温厚なシオ野からは想像もつかない激しい怒りを伴う抗議だった。その姿には、掴みかけていた勝ち点3を逃したチームの気持ちのすべてが表れていた。
なぜ、こんな結果になってしまったのか。
残暑の中、互いに消耗戦となった試合がようやく動いたのは終了3分前。序盤から常にDFラインの背後を狙い続けた橋本マソンがシオ野シタ二からのスルーパスを決める。前半から積極的に攻め続け、選手全員がすばらしい精神力を発揮したFCアルマダ。勝利の女神は微笑んだかに見えた。しかし、無敵艦隊に守りの文化はなかった。
試合後、「悲劇でしたね。ババン交代が裏目では?」という挑発的な質問を受けたチギハーゲル監督は余裕たっぷりでいなした。「まず悲劇というものをどう理解するか、ということ。私はこの試合結果は運によるものではなく、自分たちの実力による当然の結果だったと信じています。例えば、コイントスのように裏か表か、ということであれば運という言葉も当てはまるかもしれない。しかしボールは裏と表だけではない、多くの面を持っている。
サッカーで運を得るためには、自分たちが今まで何をやってきたかが問われます。運を呼び寄せるためには、それだけの力が必要となるのです。数人の選手は自分自身を責めたと聞きました。しかし、その必要は全くありません。それがあなたの実力なのだから。“高く、遠くへ”それくらいのこともできない実力なのだから。そんなに責任を感じるのならば坊主にしなさい。むしろ、周囲で何の指示も出さなかった傍観者が問題」。
チギハーゲル監督が詩人のように語った、“高く、遠くへ”とは、できるだけ自陣から高く遠くへボールをクリアし、その間に守備陣を立て直すということである。さらには、ボールをキープしながら残り時間を消費し、ファウルやスローインを貰いながら相手を精神的に追い詰めるということである。いわば、リスクを避けて試合終了を迎える初歩的な“作法”である。
しかし、ボーナスステージ続きで勝負の厳しさを忘れたのか、もともと“作法”が身についてないのか、FCアルマダは追加点を奪いに行った。その心意気は、成績をつけるとするなら間違いなく「優」である。しかし、この場面で目指すものはゴールではなく、敵陣のコーナーフラッグなのだ。「ゴールを目指すこと」は勝利の必要条件ではあるが、十分条件ではない。
何よりも、一番の敗因は指示の声を出さなかった傍観者の存在だろう。状況に応じた「指示の声」は、勝負のかかった場面ではとても大きな意味を持つ「神の声」となる。攻撃よりもボールを奪われないことを優先すべきという指示がなかったのが悔やまれる。「厳しい局面でも全員から意識的に声(指示)が出ているチームのプレイヤーは仮に集中力が落ちても、再びアップしてくるもの」。(イエローカードにPKと試合後の審判で大活躍の“俺がルールブックだ”こと、浜リーナ主審 談)
チームとしてよく組織され、ある程度はボールポゼッションができ、強豪相手にも食い下がるのだが、最後の大事な場面で詰め切れず、防ぎ切れずに結局は僅差で負ける。「健闘」と評されながらも、一方で「個」の勝負強さ、精神力の強さの必要性が語られる――。敗戦の度にFCアルマダに投げかけられる課題である。まずは自分自身で声を出す事から意識を変えてみてはどうだろうか?
後に、FCアルマダはあのロスタイムのゴールから変わった、と語り継がれることを願う。切に願う。
[試合結果]
FCアルマダ 1−1 ジュラーレFC |